こころをこめてうたう③

今日はオープンスクールにかわいい年中さんが来てくれました。体験レッスンでははじめは恥ずかしそうでしたが、徐々に慣れてきて

「バナナのうたがうたいたい〜!」

(♪バナナンバナナンバッナーナ♪みんなで歌いました!)

とか、弾きたい曲をたくさん教えてくれて、興味津々なところもとても嬉しかったです。

 

 

 

それでは前回の続きです。ラストです〜。

長いので読もうかなっと思えたらどうぞ〜。

 

 

 

 

 

私は、学生時代のピアノの先生に出会えて本当に良かったです。

「三年習うより三年師を選べ」

という言葉があります。

私の場合は、たまたま偶然の巡り合わせでその先生のレッスンを二年間受けることができましたが、思い出しても宝物のような時間でした。

 

少し横道にそれますが、師を選ぶ、なんて、なんかちょっと簡単に言えないような言葉だと思いませんか。

お子さんが受けるピアノレッスンの先生を探す親御さんには、諸条件から選ぶ、という言葉がしっくりときますが、習う本人(大人に限定しておきます)からすると自分よりも目上というか、少なくとも知識や技術を持っているであろう先生を選ぶ、という表現に私自身ドキドキしてしまいます。

 

そして、このことと矛盾していますが私は師を選んだことはありません。偶然の出会いでついた師匠が、素晴らしい先生(色んなジャンルを学んできましたが、その道を極めている一流の演奏家であり、お人柄も尊敬できる先生方です)であったことは本当にラッキーとしか言いようがないです。

三年習うより〜の言葉も納得の響きです。

 

 

 

こころをこめてうたう。

これは声に出して歌をうたうことだけではなく、気持ちを、感情を、情景を歌声に、楽器の音にのせることです。

うたうこと、の気持ちよさに少しずつ気づいていった私が学生時代、練習していてふと気づいたことは

「なんだ!自分がすきなように弾けばいいんだ!」

ということ。ちょっとおバカみたいなんですが、これがずーっと出来なかった。

なにかに囚われの身だったのです。

 

私が気持ちをこめて自分の出したい音が出せた時、先生は褒めてくれました。そのままでいいんだよって言ってもらえた気がして嬉しかったです。20歳の頃です。小さな子どもみたいだと思いませんか。

 

 

 

 

そして本当の意味で自分を解放して、歌ったり弾いたりできるようになったと感じるのは学生時代から20年経った、ここ数年です。

何にも囚われず、ただ自分のしたい表現を音にしていく。すごく幸せなことです。

私は誰かのためでなく、ただ自分のために使う時間を持ち、自分がしたい表現をする。この贅沢さが音楽、というか芸事の本質だと思っています。

 

 

 

確かに、楽器演奏をそれなりのものにするには、日々の練習、積み重ねは欠かせないもので、表現をするためには技術をある程度身につけなければいけません。

 

それと小さな子どもほど、お母さんお父さんのことが大好きで、ご両親の笑顔のためにピアノを弾くこともあります。このことを否定してはいないのですが、その子が成長し、ふと、自分はどうしたいのだろうか、と自己と向き合う時が必ず来ます。

 

 

私が目指したいのは、ピアノや楽器など音楽と触れ合うことで、その子(大人もです)が自分の時間を過ごし、豊かさを感じて欲しいということです。

もちろん、習い事である以上はやらなければいけない日もあり、自由のようであり自由ではない訳ですが(なんのこっちゃ)

常にそこを目指していたいなって思っています。

私が音楽から豊かさをもらっているので、それをそのまま伝えていけたらと、ただそう願います。