音楽という文化③

このお話、もう少し続けて書いてみます。

今回は学校という場での音楽について考えました。

 

 

 

今、子ども達は義務教育として小中学校に通っています。

学校のような子供達を教育する場として、パッと私が思いつくのは寺子屋で(それ以前にもあったのかしれませんが)、寺子屋では字を読めるように、書けるように、足し算、引き算ができるように、生活に根付いたことが教えられていたと思います。

 

 

 

今ももちろん、小学校1年生でひらがなを練習し、足し引き算を習い、その辺りは生きるための力を身に着けていく教育だと思うのですが、学年が上がるにつれ学校教育という名のシステム化された学習をやらされていくように思えてしまうのです。

それは先生1人に対し30〜40人と児童生徒が多いこと、国が学習指導要領として学習する内容を取り決めしていること(面白い!という記憶に残る先生ほど授業を脱線し、この通りじゃなかったような‥‥私が子供のころ学習指導要領の存在を知らなかったため、真実はわかりません)などなど、便宜上仕方がないことなのかもしれませんが、そのシステムが必要ないと本能で感じている子は少なくないと、私は思います。

 

 

本が大好きなのに国語の授業はつまらない。

自発的な工作はどんどんやっちゃう子が、図工は決められたものしか作れないからつまらない。

という話もよく聞きます。

はみ出しちゃうようなパワーを持っている子どもは、点数はとれない。自分の感覚の通りに進む子も。

成績の良い子は、そのシステムを知らず知らず理解し、従順であるわけです。

 

 

音楽の授業についても、あらかじめ決められている内容を、先生方のそれぞれの力量で授業として子ども達に伝えていくのですが、この感覚優位である音楽を伝えるということは、先生によって(どの教科でもそうですが、先生方の経験、考え方、ものの感じ方には大きな幅があると思います)伝わり方がものすごく違うものだと、思っています。

 

 

 

先述しました学習指導要領について書きます。

これは何年生の何学期にはこの分野の学習をするということが細かく決められたもので、何年かに一度見直され、国が必要であると考える教育内容に変更されることがあります。

最近だと、算数で台形の面積を計算する公式が省かれたことがあったと思います。(台形の面積を求める学習そのものは残っているそうです)

 

音楽では、私が学生だった頃から日本文化が見直されるという風潮があり、同時に水面下では日本の伝統音楽を鑑賞教材くらいしか取り上げていなかったことに強く疑問を持っていた教育者の方々の大変な努力もあり、中学校で日本の伝統的な歌唱や楽器に触れる(触れなければならない)という内容が盛り込まれました。

 

現場は混乱したそうです。

なぜなら、それまで西洋の音楽しか学んだことのなかった先生が、いきなり琴?篠笛?

教えるっていうか自分もできません!

と、まぁ簡単に想像できる状況なのですが、政治によって、学習指導要領が改訂されたのでやるしかありません。

 

勤勉な先生は、自ら学びにいったそうですがもちろん全員がそうとは限りません。(伝統音楽の勉強会や、専門家の外部講師を招くことなどは同時に行われていったようです。)

この辺りのことは実際に伝統音楽の教材化に尽力された先生から、直接うかがったお話です。

 

 

私は、音楽の授業というのは、本質に沿った指導を目指す先生がいる中、政治やその時代に突然おこる状況(今はコロナで歌わずに音楽の授業をする学校が多いときいています)、ひとりの先生が多くの子供に同時に伝えなければいけない現状などから、残念ながら文化としての音楽を感覚的に伝えることはかなり難しいことではないかと考えます。