歌うことと母国語についての考察

超固そうな題名を付けてみました(笑)

 

これ、長年ずっと考え続けていること。

 

言葉、というのは情報伝達のツールとしてだけではなく、それぞれの国の文化が言葉にあらわれていて、その国の言葉でやり取りするということは例えば方言であっても異文化であり、生まれ育った環境で覚えた言葉(母国語)ではないわけです。

 

私は、オペラアリア(簡単に説明すると、オペラは昔のイタリアなどの国のミュージカル、アリアはそのミュージカル中で独りで歌う歌のことです。)などイタリア語、ドイツ語、フランス語などの歌を勉強していた時期がありました。

その頃、歌うことは好きでしたが、どうしても外国語の歌を歌うことはしっくりときませんでした。

しかも、同級生(オール日本人)みんなに対して、外国語の歌を歌っている姿を見ていて図々しくも誰ひとりしっくりとこなかった訳です。当時誰にも言えませんでした。

もちろん、飛び抜けて上手な人もいる訳です。でも、聴いてる私はしっくりとこない。

 

その後日本の歌曲も歌いました。

日本の曲といっても戦後に作曲されたものであり、西洋音楽の形式で作られた曲に日本語の歌詞をつけたものでした。

日本語を、西洋の音階に乗せて歌うことは、正直難しいことだと感じました。

西洋の発声方法で日本語を歌うには、ものすごく注意深くならなければいけなかったのです。

そして、この時習った日本の歌曲にもなんだか違和感を感じていたのでした。

 

でも、そういうもの?

なんだかなぁ〜。

そういうものといえばそういうものかなぁ。

 

 

 

服装でも、今日はコレ正解!!お天気とも合ってるし、着ていて気持ちいい〜ピッタリ!

っていうのと、お気に入りだけどちょっと、こうじゃなかったな、って時とあるんですが、そういうちょっとちがうんだよなぁ〜っていう感じ。

 

 

私がこの違和感の正体に気づいたのは、日本の伝統音楽のお稽古を続けて行く中でのことでした。

 

長唄、という三味線と共に歌う歌を勉強したのですが、歌というか、言葉なのです。

中途半端に西洋音楽もやっていた私に、先生

から

「喋るように、この言葉に聞こえるようにうたうんだよ〜」

と指導してもらいました。

この先生の一言をいつも頭の片隅に置いておいて、長唄の勉強を続けました。

 

そして、ある時ふと気づいたのが、長唄にはあのしっくりとこない時の?マークがゼロだったということです。

 

そうかー。コレだったんだー!コレコレ!!

って私は嬉しくなりました。

 

たまたま私に合っていたのかもしれませんが、自国の伝統的な音楽である長唄には、変に構えることなく、すーっと入ってくる何かがあったのです。

 

 

私は、オペラも長唄も日本の歌曲も最近流行りの曲も、音楽ということに境目はなく、聴く人を楽しませ、時に悲しい気持ちにさせたりすることは全て共通だと思います。

クラシックにはクラシックの良さがあり、歌謡曲には歌謡曲の良さがあります。

もちろんそれぞれの好みはありますよね。

それも踏まえて私の欲を言えば、色んな音楽を知って欲しいし、触れてみて欲しい。

知らずに大人になると、固定観念に邪魔されてそれぞれの音楽の良いところを受け取りにくくなってしまうのです。

クラシックなんて堅い!

謡曲なんて‥‥。

長唄って、なんじゃろー。ですよね笑

 

 

話がそれました。

 

 

私は色んな発声方法、様々な言葉の歌を勉強してきて、結局私が1番すきなのは日本語を歌ってる自分です。

最近は英語の歌も歌いますが、話せない英語を歌うのは一苦労です!

ひとつひとつの単語の発音を気にかけて、単語の意味を調べて、文章の意味を理解しながら。

日本語を歌うのと同じとこまでいくのに、この手間。なのにやっぱり日本語を歌うときの気持ちよさにはかなわない。

 

日本語がキレイに、気持ちよく歌えた時の充足感は何にも変え難いです。

 

 

外国語が話せる方は日本人でもまた違う感覚でしょう、と想像します。