音楽という文化①

前回の続きの内容です。

ただ、私の頭の中にあること文章にしてみたくなっているのです。

なるべくわかりやすく、書きたいと思っています。

 

 

前回、日本人である私は色々な国の言葉の歌を歌ってみて、結局しっくりくるのは日本語だというお話をしました。

 

そこをもう少し掘り下げてみます。

 

 

 

音楽のはじまりは打楽器だと言われています。昔の人が石器を作る時に出るリズム(石で石を打ち付けるリズム)や、離れた場所にいる相手に何か伝えるための信号をリズムに乗せたと言われています。

 

心地よさ、利便性、どちらもあったのではないかと私は想像します。

 

それと生活の中に自然発生したのではないか、と考えられます。

 

今、コロナの影響でライブハウスや音楽教室などは自粛の動きです。私個人はその中でも音楽が心の拠り所なのですが、もしかしたら今、音楽をやっている場合じゃない、と考える方もいるとは思います。

(どんなカタチであれ音を楽しむことはできますが、ライブハウスなどはライブが出来ないことが存続の危機でもあるので、それを思いながら書きます)

 

 

コロナで緊急事態宣言が出て、不要不急、という言葉について考えました。

そして教室でしているレッスンについては不要不急と考えました。

ですが、音楽は私の日常からはなくなる事はない訳でそれはやっぱり自然とそこにあるものなんだなぁ、と改めて思いました。

 

 

なんのためにピアノを習う??音楽教室に通う?

私は、絶対音感を養うためでも、賢い子に育てるためでもない、と思っています。

 

 

頭で考えすぎてしまうことが多い現代社会。

私ももちろんその一員で、頭ばかり使ってヘトヘトになることがあります。

 

 

こうしたら、ああいう結果がでる。

これをやっといたらメリット(デメリット)がある。

などの方程式があちこちにあって、この社会に生きている以上はそれに従うことも必要な時もあると感じます。

 

 

音楽教室、という場所もそのメリットデメリットを考える対象になりがちです。というか、どんな習い事でもそうですよね?

お金を出す以上のリターンを、親は知らず知らず求めてしまう。

これをやったらこんなメリットがあるから、何歳からこの習い事をやらせよう(方程式あてはめ型)。

教室のうたっているような結果が出ないからやめさせよう。

などなど。私も親ですので気持ちはわかるし、実際そういう思考にとらわれることもあります。

 

 

思考にとらわれすぎてしまうと、大切なことを見失ってしまいます。

楽しむこころ。

本人の意志(お子さんの場合です)。

 

 

 

 

今朝、わかりやすい例えを見てしまいましたので、ちょっと書いてみます。

 

 

 

我が家の朝食はご飯が多いのですが、今日はパンでした。

子ども達は嬉しくて、何枚たべるーとか、おかわりするーとか言っています。

そこへ父親が、

「ひとり1枚半まで!」

「え〜2枚食べちゃいかんの〜?」

「2枚は多すぎる!」

「じゃあコーンスープをいっぱいおかわりする!」

「気持ち悪くなったらどうするんだ!」

 

とやりとりしています。

省略しますがこれはしばらく続いて、もう、楽しみだったパンとスープは、涙のもとに。。。

 

 

朝食を用意してくれた夫には感謝ですが、子ども達は夫が出勤したあとにコッソリ?スープをおかわりしていました(笑)

 

 

夫がパンの枚数を制限したのは息子は好きなものばかり食べるから、という理由もあるそうですが(いつも見ているので確かにそう思います。私も色々食べようねと日頃言っています。)、私が注目したいのは、親が思考にとらわれすぎてしまった結果、楽しみが楽しくなくなってしまった、という部分です。

 

 

習い事も、よくこうなりがちだと思うのです。良くも悪くも、親の想いが入り過ぎ。

 

 

大切な本人の意志。

やりたい!と思った時のワクワクした気持ち。

 

 

そこは見守る側がずっと大切にしてあげたいもの。

 

 

音楽は、ただ音を奏でたいからそこにあるのです。